下北と原子力 課題今も…「むつ」事故40年

むつ市に母港があった原子力船むつ(廃船)が太平洋上で放射線漏れを起こしてから今年で40年を迎えた。原子力関連施設が集中する下北半島が原子力と関わるきっかけともなった「むつ」を知る人と、地域の今を探った。(小田倉陽平)
■原子力半島の端緒
 「原子力船母港、反対」
 1974年8月下旬、むつ市大湊港近くの路上。初の出力上昇試験に向けて出港しようとする「むつ」を阻もうと、座り込む大勢の反対派が叫んだ。漁師の不安が根強く、海上では漁船が「むつ」を取り囲んだ。
 座り込みをした当時高校教師の斎藤作治さん(84)は「労働組合の動員で参加した。多くの人が原子力の知識もなく感情的に反対した。今思えば下北が『原子力半島』になるきっかけだった」と振り返る。
 「むつ」は反対派の隙を突いて出港するが、太平洋上で放射線漏れを起こす。
 当時、「むつ」に乗っていた日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)職員だった小林岩夫さん(78)は、「(環境を汚染しない放射線漏れなのに)、あたかも放射性物質が漏れたかのように報道され、誤解を招いた」と残念がる。
■後継船造られず
 その後、新母港の選定が難航。市内で母港存置を求めた「むつ原子力船母港を守る会」(解散)元会長の今村恒喜さん(90)は「季節労働者が多く、貧しい地域だった。技術者が来るなど経済効果を期待した」と語る。だが約1200億円も投じて開発された「むつ」に続く原子力船は開発されず、効果も限定的だった。
 「少しはむつ市が良くなったかと思いたいがそうでもない。国策とは何なのかと今も思う」
 つぶやく今村さんの言葉は重い。
■経済原子力頼み
 「むつ」に振り回された下北半島だが、今は原子力施設が集中する地域へと変貌した。むつ市はこれまで、約340億円の電源立地地域対策交付金を公共施設の建設費や維持費、保育サービスなどに幅広く活用した。地域経済も「原子力がないと成り立たない」(地元経済関係者)ほど依存する。
 本県と原子力の関わりに詳しい青森地域社会研究所の末永洋一特別顧問(70)は「『むつ』の事故は県民に原子力への恐怖を与えたが、県民はそれを克服してきた。原子力を着実に進めることで得られる地域への経済的恩恵は大きい」と指摘する。
 一方、市民団体「下北の地域文化研究所」代表も務める斎藤さんは「下北半島は、自力ではどうにもならない地域振興を外から来るものに期待してきた。国に依存し続けて思考停止にならないために、自分たちで何ができるか考えないといけない」と訴える。
◆ 原子力船むつ 日本で初めて造船された原子力船。県は1967年11月、下北半島の開発に期待し、むつ市大湊港の母港化を受け入れた。74年8月、同港から初の出力上昇試験に向かったが9月、太平洋上で放射線漏れを起こす。新母港の選定が難航し、88年1月、同市関根浜港に入港。実験航海を4回行い、95年に廃船作業を終えた。

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